校舎の前には、沢山の桜の木が並んでいる。
春には、見事な花弁の舞いを見せてくれて、それはそれは、皆の心を躍らせていた。
けれど、もう一本の桜の木を、ほとんど誰も、見ようとしない。
昔からある、桜の木。
ひっそりと、校舎の裏にひっそりと立っている。
あまりにもひっそり、ひっそりと立っているものだから皆、忘れてしまったんだ。

皆が忘れても、オレはずっと、お前に会いにいくよ。








忘 れ ら れ た 桜 の 木









ザワリー…。

ああ、桜の木が揺れている。
心地よい音ー…。
ヒラリ、ヒラリ、と何か軽い、ふわりとした物が、オレの鼻の上に乗った。
くすぐったさに目を覚ますと、それは淡い桜色の花弁だった。

「…−…寝てたんだ…」

こしり、と目を擦り、上を見上げると、まるで何か囁いているかのように、
桜の木が、ザワザワと揺れた。
ああ、起こしてくれたのかな。こんなところで寝ていたら、授業に遅刻してしまうから。

「ありがとう。起こしてくれたんだー…、授業に遅れるからって」

頷いたように、花弁を一枚、落としてくれた桜に、ふわりと微笑むと、太く逞しい幹に手を触れた。
この桜の木は、とても前からあるものだ。
校舎の前に、たくさんの桜の木があるが、それよりもずうっと昔から、あるらしいーと、事務員さんが教えてくれた。
この時期になると、昔は大勢の生徒が、この桜を見に来たらしいが、今はそんなことは無くなった。
皆は校舎前の、新しく並んだ桜の木ばかり見て、この桜は忘れられたまま、ひっそりと校舎裏で立っているのだ。

「…でも実は、あまり行きたくないんだ。…学校は、好きじゃない…」

ダメツナと呼ばれ、友達も出来ない日々。
それは決して楽しいものではなく、この、決められた一つの場所に毎日通うのが、とても憂鬱だった。
そんな中で、この桜の木のある校舎裏に寄ることは、オレにとって、とても救いになっていた。
優しい、淡いピンク色は慰めてくれるし、それが終われば、元気一杯の緑が、励ましてくれる。
冬になっても、この木の側に居ると、安心した。
幹をそっと撫でると、もう数枚、上から花弁をくれた。
せめてこの幹のように、少しでも逞しくなれれば。
それは体力的にでも、そして精神的にも。
そしてせめて、友達が一人でもいい。−出来ればいいのにと、いつも願っていた。

「…いってきます」

桜の木から離れると、オレは重い足取りで、教室に向かった。








教室に着くと、いつものように席に着き、いつものように教師がホームルームを始める。
そして授業が始まり、その次には休憩時間ー…。
休憩時間は特に嫌なものだ。一人きりを実感させられる。
もう、慣れたし、特に悲しいとも思わないけれど、−…。
1時間目の数学の教師が、プリントを配り始めた。
数学は苦手だ。
前の席の奴からプリントが回ってくると、その内容に頭がクラクラしてきた。
こんな数字とアルファベットばかりを並びたてられても、意味が分からない。
数学が得意な奴って凄いなあ、これを全部解けてしまうんだから。
などと、そんなことを思っていると、背中をツンツン小突かれた。
驚いて後ろを見ると、そこには人懐こい笑顔があった。

「ツーナ、プリント、オレにもくんない?」
「え…、−…あ!ごめん」

ば、馬鹿!オレは何をやってるんだろう。
他の人間なら、睨まれている所だが、彼ー、山本武だけは、違った。
そう、−…。彼は、クラスの人気者で、野球部のエース。
いいな、オレも、こんな風になれたらよかったんだけど…
憧れていた。ずっと、ずっと憧れていた。
少し緊張しながら、プリントを山本に差し出すと、山本は「サンキュー」と、また笑ってくれた。






数学の次の休み時間。一人ぼっちの時間だ。
けれど、それはオレの、いつもの日常とは違っていた。いつものように一人、することもなく、
ポツリと椅子に座っているだけーだったはず。話しかける人もいなく、本を持ってきては、それを読んで。
そんな休み時間だったはずだ。いつもはー。
けれど今日は何故か、一人、背の高い人物が、オレの机の横に立っていた。

「−…あ、あの。山本?」
「ん?」
「……みんなの所に行かないの?呼ばれてるけど」
「ツナ、行かないだろ?」
「う…ん」

みんなが呼んでるのは山本なのだ。オレが行っても仕方が無い。
すると山本は、少し身を傾げて、オレの顔を覗き込んだ。

「な、今日放課後、一緒に宿題やんね?効率いいと思うんだけど」

山本の誘いに、オレは目が飛び出そうになった。
なんだって、あの山本がオレを誘うんだろう。夢でも見ているんだろうか。
本気で、そう思った。驚いて驚いてーああ、もしかしてからかっているのかな、などと山本を疑って、
彼を見上げると、山本は「なんだよ」と笑った。
嘘じゃ、なく。夢でもないらしい。嬉しくて、嬉しくて。
その日は、教室に残って、山本と宿題ー…、というか、宿題よりも、笑って喋ってただけだったけど。

今日を境に、オレと山本は一気に親しくなっていった。


野球部を見学するようになったり、弁当を一緒に食べたり。
野球部を見てる時は、必ず山本がこっちに手を振ってくれて、何だか照れてしまったけど、
手を振り返すと、山本はとても嬉しそうに笑ってくれた。
弁当も、忘れた時は、山本と購買に駆け込んだりした。
人を押しのける体力なんてないオレは、諦めて、息を切らして山本を待っていれば、
山本は大量のパンを買ってきて、オレに分け与えてくれた。
申し訳無さそうな顔をすると、山本はまた、あの、オレの好きな笑顔を向けてくれるのだ。
ー憧れだった。こういうの。

山本と仲良くなれて、本当に嬉しかった。
以前の憂鬱が嘘のように、この場所に毎日通うのが、楽しかった。






「綺麗だなー。今の時期」

屋上でペットボトルを持ちながら、昼休み。
山本が、屋上の柵に手を掛けて、今にも落ちそうなくらい身を乗り出して下を見た。
校舎前の、ずらりと並んだ桜の木を見て、「綺麗」を連発していた。

「−…うん。でも、裏にも桜があるんだよ」
「裏?」
「凄く、綺麗なんだ。オレは表の桜より、裏の桜の方をいっつも見てる」
「−…裏に桜なんかあったか?」
「凄く控えめに咲いてるんだけど。でも、落ち着くんだ」

オレはあの、裏の桜を思った。
表の豪勢な桜も、とても綺麗だと思うけれど、裏の桜は、オレにとっては特別な桜だったのだ。

「オレの中では、一等賞」
「…へえ」

山本は、いつもと少し違うような笑みをオレに向けた。
嬉しそうで、温かくて、でも、いつもみたいな全開の笑みではなく、ふんわりと笑っていた。
男らしいのにー綺麗だった。そしてそれと同じくらい、儚くもあった。
こんなに、逞しいのに。
山本は、くしゃりとオレの頭に手を置くと、そのままワシャワシャと掻き混ぜた。

「わ、な、なに…っ」

山本はまた、いつものように全開の笑みを向けた。
二人共、すっかりペットボトルが空になった頃、予鈴が鳴り響いた。









その日の放課後、山本は部活へ、そしてオレも、帰る支度をしていた。
ゴソゴソと鞄に教科書を入れていると、数人の男子が近づいてきた。
ー…同じクラスの者ではない。
他のクラスー…、そして、素行の悪さが目立っている、派手な生徒達だった。

「あのさ、俺等困ってんだけど」
「買い物行きたいんだけど、皆具合悪くてさー、行けねえの」
「ツナ、代わりにコンビニまで行ってきてくんね?」

財布も出さずに、「行くよな」と強く言うと、ツナの机に拳を叩きつけた。
今までは、こういう場合、行っていたー…、が。
いつまでも、こんな事ではいけないと、自分でも自覚していた。

「…すいません」

ツナの”No”に、相手の顔が歪んだ。意外そうであった。
自分達に逆らったツナに、怒りを露にし、前の机を蹴り飛ばした。
これで、ビビって「行く」と思ったのだろう。
けれど…。
オレは、OKを出さなかった。
相手もいよいよ、本格的に苛立ち、拳をギュっと握り締めた。
覚悟をして、ぎゅっと瞼を閉じた。
が、いつまで経っても殴られることはなく、恐る恐る瞳を開けると、
そこには数人の男子が、固まっている姿があった。
固まって、見つめている先は、教室の扉。
そこには確かに、山本の姿があった。

「−…ツナに何してんの、お前等」
「山本…!ち、違うって!」
「俺等別に、何も、してねえよ…っ」
「い、行こうぜ!」

山本は静かに教室の中に入ると、オレの側に来てくれた。
瞳で何もされていないか問いかけられ、コクリと頷いた。
パシリに使われそうになったけど、特に何かされたわけじゃない。

数人がバタバタと走り出す。
するとオレは、急に安心してしまって、ボロリと涙が出てきてしまった。
今まで、逆らったことなんかなかったから。
それにーそれに、ああ、情けないところ、見られた。
けど、安心した。山本が、来てくれた。

「ツナ!?なんだよ、やっぱり…」
「ちが、違うから。−…ありがと、山本」

本当に、安心した。山本が、来てくれて。
どうしてこんなオレに、こんなにも素晴らしい彼が、親しくしてくれるのだろう。
それがとても、不思議だった。けれど、嬉しくて、嬉しくて。

オレは山本が、好きだ。





部活に行ったはずの山本が、何故戻ってきたのかというと、携帯を忘れたらしかった。
照れたようにオレに、微笑んでくれた。
山本とは毎晩のように、携帯で話していた。メールも頻繁にしていた。
あまり使わない携帯だったのに、受信ボックスは一杯になっていく。着信履歴も、もう空白ではない。
夢のようだった。











「山本、なんか元気ない?」

放課後の教室は、橙色に染まっている。
いつもより口数も少なく、−でもオレの前では明るく振舞っている山本が、気になった。
オレに心配をかけたくないのか、山本はいつものように笑う。

「そんなこと、ねーよ」
「…うそ」
「−…元気ないように、見えるか?」
「うん」

そこまで話すと、山本は睫毛を伏せて、静かに橙に溶け込んだ。
もう一度、オレに向かって、微笑んだかと思うと、すぐに動き出し、オレの手を引っ張った。

ー……え?

山本に抱きしめられているのだと、理解した。
しかし理解した瞬間に、山本はオレを離してしまった。

「…やま、もと…?」
「………じゃあな、ツナ」

山本はポツリと、笑顔でそれだけ言うと、駆け出してしまった。
オレはただ、呆然としていてー…、
今、この教室が橙だろうが、青だろうが、赤だろうが、気がつかなかったに違いない。
抱きしめられた。−山本の胸に、一瞬、鼻がついた。
伝わってきた、山本の体温。それは温かくて、安心できるもののはずだけどー
なんだろう。この感じ。嫌な、胸騒ぎがする。
ザワリ、ザワリ、胸騒ぎ。

何かどうしようもなくー不安だった。






家に帰っても、嫌な予感は拭えない。
どうしたらいいんだろう…。
携帯を手に取り、山本に電話を掛けようとする。
きっと山本の声を聞けば、安心する。
今、宿題やってるのかな。それとも、テレビでも見てる?
『ああ、ツナ、どうした?』って、明るい声を聞けば、きっとオレは、安心できる。
そう思って、通話ボタンを押した。
けれど、オレの望んだ声は、耳に入ってはこなかった。

『お客様がお掛けになった電話番号は 現在 使われておりません』

無機質なアナウンスが、響く。−…掛け、間違えた?
けれど、番号を押した訳ではなく、リダイヤルで掛けていた。
弄ってはいない。これは間違いなく、山本の番号。
だがきっと、何か間違えてしまったのかもしれないー。
そう思って、今度は山本の番号を数字のボタンを使って、押していった。
けれど、流れてくるのは無機質なアナウンスで、山本の声ではない。

ーなんだって…?

信じられなかった。
嫌な予感が、的中してしまいそうな気がして。
頭は混乱していた。
どうしよう、どうしようと、今度はメールを送ってみた。
しかし、すぐに戻ってきてしまった。存在しないメールアドレスに、送った為、だった。
それならば、家の電話は、と思い、今度は連絡網を見てみる。
山本、やまもとー、どこにある?
目で追って、見つからなくて、指で追ってーけれどやっぱり、見つからなくて。

ー…載ってない…?

信じられないことに、連絡網には、「山本武」の名前は無かった。
嘘だー…、これは、これは夢なのかもしれないー…。
ほっぺたを抓ったら、伸びるかもしれない。
そんな馬鹿なことを考えて、抓ってみた。ぶってもみた。
感覚は、確かにある。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
…これは夢じゃない。
おかしいくらいに鳴り出す鼓動を抑えながら、卒業アルバムを引っ張り出した。

ー…どこにも いない…。

彼を探す。小学校の頃ー何組だった?
分からない、分からないー!

心臓が、飛び出そうになった。
胸騒ぎ。嫌な予感。掛けられない電話。戻ってくるメール。
どこにもない、山本の名前。




そうだ、そうだった。
山本 って、 この学校に 居たっけ −…?




最初、回し忘れた、プリント。
当然だった。今まで、後ろの席に人なんて、いなかった。
オレが、一番後ろの、席…。

居ても立ってもいられなくなり、自分の部屋を抜け出した。
ダダダダダ、と階段を降り、母親の許へ駆けて行く。

「母さん!山本、って、山本って知ってるだろ!?家に一回遊びに来た…」
「…山本君?来てないわよ。聞いてないわ、そんな名前」
「−……っ!嘘だ…!」
「?変な子ね。それより、残念ねぇ。校舎裏の桜の木、無くなっちゃうんでしょ?」
「−………え…?」
「ほら、母さんも見たことあるけど、結構大きな木じゃない。
第二校舎の教室に、日が当たらない所が出来ちゃうんですって。今日、切り落とすらしいわよ」





気がつけば、家を飛び出し、学校へ向かっていた。
夜の闇を走りながら、涙が止まらず流れてくる。
それでも、駆けて、駆けて、駆け抜けて行った。


山本、山本、山本!

もう、会えないの?違う、また会える。
明日、学校に行ったら、きっと顔が見える。これは何かの間違いで、
オレはきっとまだ、悪い夢の中。

ーそんなんじゃない。分かってる。
きっと、明日、学校に行っても、もう会えない。
顔も見れない。声だって、聞けない。
これは何の間違いでもなくて、オレは夢なんか見ていない。

居なくならないで、頼むから、山本。
たった一人の、友達だった。いなくならないで。

桜の木ー
お前はいつだって、オレの側にいてくれたじゃないか。
表の桜が皆に騒がれて、それでもお前は校舎裏で、ひっそりと、咲いていてくれていたじゃないか。
切ってしまわないで。

なくなって しまわないで。オレの大切なものたち。




正門を抜けて、がむしゃらに走って、校舎裏へ飛んでいった。
目に飛び込んで来たのは、1つの切り株だった。
オレは呆然と、ただ、立ち尽くしていた。
切り株の周りに、桜の花弁が、たくさん、落ちている。
あの、太く逞しい幹は、もう何処にもない。
あの、優しい色と音で、自分を励ましてくれた桜は、もう何処にもない。
いつも笑ってくれた。いつも、側に居てくれた。
山本は、もう何処にもいない。

オレは、ヘタリ、と、その場にしゃがみ込んだ。
立っているのは、無理だった。

”なくなってしまわないで。大切なものたち”


ーなくなってしまった。


「…山本って、お前だったんだ…」

変わり果てた桜の木に手を触れ、オレは泣いた。
大声で、泣いた。
涙が止まらず、居眠りするような格好で、切り株の上に置いた腕の間に顔を埋め、
グスグスと、泣いた。
すると、ヒラリ、ヒラリと、上から花弁が落ちてきた。
手に何か当たった感触がして、驚いて上を見上げるが、勿論、桜の木は無い。
しかし、ヒラヒラと、空から花弁が降ってきたのだ。
慰めるように、次から次へと、落ちてくる花弁に、涙は漸く止まった。


「…ありがとう、今までー…」

ありがと、ともう一度呟く。
また、涙がボロリと零れ、オレはまた、切り株の上で泣いた。
もう少しだけ、泣かせてほしい。
ー初めての、友達だったんだ。







翌日、学校へ行くと、山本の席は消えていた。
不思議なことに、もう誰一人として、彼の事を覚えていないのだ。
オレはいつもどおり学校へ行く。毎日、校舎裏の桜の切り株の所に寄るのも忘れない。
山本のいない生活は、酷く寂しいが、周りの状況は確実に変化していた。
もう誰も、パシリに使おうとはしなかったし、ポツリポツリと、会話を楽しめる友人も出来た。
それでも、山本。
やはり彼はとても特別で、時折、涙が溢れそうになってしまう。
でも、そんなオレを支えてくれたのが、桜の挿し木だった。

切られてしまった、あの日。
驚いたことに、母さんが勿体無いと、前日にあの桜の木の枝を何本か頂戴して、植木鉢に植えていたのだ。
もしかしたら、ここから芽が出るかもしれない。
今からとても楽しみだ。


ずっと、忘れない。
ひっそりとした、優しさに溢れた桜の木があったこと。
山本武という名の、素晴らしい友人が居たことも。
ずっと、ずっと、忘れはしないだろう。











タイトルは、より子さんからお借りしました。
そしてこのパラレル、浦川まさる先生の「マイ・ロマンティック」という
お話が、もとネタであります。この漫画、とてもおすすめ。
凄く素敵だった記憶があります。リボンコミックです。




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