第一話
寒すぎる空気に、ブルっと肩を震え上がらせるけれど、ツナはそこから動こうとはしなかった。 温かい光の溢れ出る家に帰れば、すぐに冷えた体を温めてくれるだろうが、それはしなかった。 ここから動けない理由は、野球部がまだ解散していないからだ。 一部の者はもう帰っているが、一部の者はまだ残っている。 (・・・寒い) しかし野球部のエースである山本はまだ、キリリとした瞳をして頑張っている。 故に、自分だけ帰るわけにもいかず、ただ、待っていたいというのもあった。 最近は試合が近くなってきてしまって、中々会えないものだから、少しでも会いたいと思った。 (それに、山本の練習してるとこ、ちょっと見たかった) 何となくー頑張れる。 彼も頑張っている。その姿を見ると、ああ、自分も頑張らなければなと思うのだ。 心の中でそっと、がんばれと言うのが好きだった。 鼻がジンジンと痛み出して、手が麻痺してくるのが分かる。寒い寒いと感じていたが、段々と、感じなくなってくる。 ちょっとまずいだろうか、と思っていると、ピー!と笛が鳴った。 わらわらと、笛の鳴った方向に生徒達が集まっていく。 山本も例外ではない。息を一つ吐くと、コーチの方へ向かう。その、少し前に、フェンス越しのツナに視線を向けた。 4本の指の第一関節を軽く折り、おいでおいで、のような、バイバイ、のような、 軽く手を振る様な仕草を見せると、周りにいる女子達から黄色い声が上がる。 ツナは驚いた。こんなに女子がいたっけ、と思ったが、どうやら笛の音を聞いて、 練習の終わりをどこか、寒さの凌げる場所で待っていた女子達が戻ってきたらしい。 確かにここでこのまま待つのは辛い。 解散!という声が空に響くと、辺りは一斉に気の抜けたような喋り声でざわめいた。 「ツナ、待ってられる?」 「ん。大丈夫」 「着替えてくるな」 「うん」 ツナの側を離れ、部室に向かおうとしている所を、仲間に肩を組まれたり、 待ち伏せしていた女子などに群がられたりする。 山本は人気者だ。 ツナはその様子を、ただ、ぼうっと見ていた。 ヤキモチを妬いたりしているわけじゃない。 好き好んで見たいものではないが、山本が皆に好かれるのが至極、当然のことだ。 山本の背中から視線を逸らすと、麻痺していたはずの体がまた、ブルリと震えた。 「お待たせ。ごめんな、試合近くだからさ」 「や、全然。勝手に待ってただけだし」 「へえ・・・」 何も気にしてないよ、と言うように笑ってみせる。 夕闇の中、薄っすらと山本の顔が見えて、ツナは胸の奥がぞわりとした。 もう少し見つめていたならば、鳥肌が立ってしまいそうになったのだ。 そんな自分を、おかしく思ったのは最近。けれどおかしくなっているのは山本だと気がついたのもまた、最近。 自分が変わったというよりも、山本が変わったというか、成長したというか、そのせいで、 ツナはこんなに動揺するようになった。 「ツナ、色っぽくなった」 薄く、目を細めて笑みを作りながら見つめられると、今度は胸の奥が爆発しそうになった。 もぎ取られるかと思った。山本は、変わった。 中学の頃は、ただただ、爽やかで好青年で、野球が上手くて、笑顔が似合う男だった。 その時だって勿論かっこよかったが、今はそれだけではなくなった。それだけではすまない。 それがツナを困らせていた。 (山本の方が色っぽい、ていうか、えろい) どうしたことか、中学の頃の元気な少年は、今は色香を漂わす青年へと成長を遂げていた。 勿論、中学の頃の面影だって消えてはいないが、それよりも妙な色気が出てきて、ツナは目が合う度に心臓を持っていかれそうになった。もう何度、味わったことか。 女性的なそれではない。男性的な、色香というものだ。 『武って、キス上手そう』 『エッチ上手そう』 『場数踏んでそう、慣れてそう』 (だからあんなこと言われる・・・) そんな話題になった時に、女子が口々に言ったのを覚えている。キャーと黄色い声が飛ぶ中、それを聞いたツナが、 当の山本よりも真っ赤になってしまったのも覚えている。 山本はというと、「ふーん」ー。 それだけで、過剰な反応は一切しなかった。 「色っぽいって・・・どうせならかっこいいとか言われたい」 ツナは気がついていなかった。自分も十分、変貌していたということ。 劇的に変わったわけではないが、ひっそりと、ひっそりと、人を酔わせる色気を漂わせていた。 自覚のないツナは、山本の言うことが全く分からずに、ただただ、冗談だと思っていたが。 「そっか、悪いな」 軽く謝られただけで、唇を静かに閉じる。睫毛を伏せる仕草さえも、山本は以前とは違う。 ツナにはそう見える。きっと他の人間にも、そう見えるに違いない。 山本は恐ろしい。このまま大人になったら、どんなに人々を魅了する男になるのだろう。 今よりも更に、格好よくなるのだろうか。 今よりも更に、余裕のある笑みを見せるのだろうか。 きぃんとする冷気に当たり続けているのに、やはり顔に熱が集中する。 大人になって、まだまだ自分が山本のことを忘れられなくても、どうしようもない。 今だってこれからだって、何かをするつもりはない。 やっと、やっと諦めかけてきているのだ。 中学の頃、山本を好きで好きで、苦しくてならなかった。 どうしてこんな事になってしまったのか、自分を恨み、運命を呪い、もういっそ、離れてしまいたいと思った。 人気者の山本を見ていると、やはり嫉妬などの醜い感情が、もやりと胸に広がってしまうし、 彼に触れる人間や、彼が触れる人間を見るのも、辛いものがあった。 やっと諦めかけている。 どうしようもないのだと、友達になれただけでもありがたいのだと、ずっと自分に言い聞かせてきた甲斐があった。 友達という、近い距離。この位置までも失いたくない。 そう思った。 山本が、他の誰かに恋をしていることは知っていた。 山本は叶わない恋をしていたのだ。 時折、ふ、と、見せる切なそうな、どこか遠くを見つめる山本を見ると、ツナは胸が締め付けられた。 あの自殺騒動のあった後、割と早い段階で、ツナは山本に相談を持ちかけられていた。 『彼氏のいる子、好きになった』 その頃はまだ、山本にそういう意味での感情は持ち合わせていなかったツナだ。 ただ、返答に困っていただけだった。 山本が愛を告げれば、たとえ彼氏がいたって、きっと奪えると思った。けれど山本はイイ奴だ。 奪ったその後で、罪悪感に苦しむのではないかと、それを思って、背中を押すか否か迷った。 ツナが山本を見ずに、俯いて悩んでいると、山本も俯いて、睫毛を伏せた。 橙の色が、山本の真っ白なワイシャツを染め上げていたのを、ツナははっきりと覚えている。 『うそ、ごめん。結婚してる人、好きになった』 引くかと思って言わないつもりだったけど、ツナ、真剣に考えてくれてっからー。 そう言って、自虐的に笑った。オレにはその人奪うの無理だから、諦めてると言った。 ツナは呆然としていた。まだ、中学生だ。全く考えていなかった。 ドラマなどで、不倫ものがあったって、自分とは別世界のものだと思って見ていたし、 だからまさか自分の友達にそれを相談されるとは、思ってもみなかった。 まして山本は、そういう恋はしないタイプだと、思っていた。 それから色々と相談に乗ったが、付き合ったこともない中学生の自分が、果たして山本の役に立ったのかどうかは不明だ。 けれど山本が、自分が発した言葉に、少しでも笑顔を見せてくれたものだから、ツナにはそれが嬉しかった。 諦めたとか、諦めていないとか、その人妻とどうにかなったとか、そういう結果は聞いていない。 自分から聞いてはいけない気がした。 それに、その頃にはもう、ツナは山本に特別な感情を抱き始めていたのだから、聞く勇気もなかった。 山本はきっと、凄く辛い恋をしてきた。それが、山本が変わった理由なのだろうとツナは思った。 中学の時に、そんな恋をした。それが、こんなに大人っぽく、色っぽくなった所以なのだろう。 (こんなに人気者なのに) わざわざあんな恋を選んで、辛い思いをして、どうして自分も山本も、報われるような恋ができないのかと、 悲しくなる。 チラリと、山本を見上げる。電灯もポツ、ポツとしかないものだから、山本の横顔がはっきり見える訳ではない。 視線を送っていると、山本が気がつき、視線と視線が交わった。 「ん?」 何でもないと首を横に振ると、山本はすぐに納得する。ツナの頭にポンと手を置くと、くしゃりと頭を掻き混ぜた。 構い方は変わっていないはずなのに、やはり中学生の頃とは違う。 すぐそこに別れ道が待っている。そっと手が離されると、山本は口許を上げた。 「じゃあな」 うん。答えると、山本はくるりとツナに背を向ける。見えなくなる前に、ツナも、もう片方の道を歩き出した。 一度消した火が、またついてしまわぬことを祈りながら足を進めた。 否、もしもついたとしても、一度消したものだ。 また、消せばいいだけのこと。 |
山ツナぽくない。なのに続き物。ドッヒャ〜…。
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