これは間違いなく、舞踏会の時の、あの音色ー。 あの女性の弾いた音! 自分を、全てを魅了した音だった。 おかしいほどに鳴り響く胸を抑えながら、ツナの家の方に足を急がせる。 やはり、ピアノの音はツナの家から聞こえている。 ー間違いない。間違えるはずがない。 あの家の中に女性はいるのだ。 木の扉を叩くと、ピアノの音が止んだ。 どうか女性が逃げてしまっていませんようにと、モチダは心の中で祈った。 キイ、と古びた音を立てて、扉が開かれた。 出てきたのは、ツナ、だった。 モチダの姿を瞳に映すと、目を見開いた。 「サワダ!ー…すまない。上がらせてもらう」 「…ど、どうぞ…」 モチダを中へ通すと、彼は何かを探しているかのように、キョロキョロと家中を見だした。 ツナが不思議そうな瞳で、モチダを見つめると、漸くモチダは口を開いた。 「…今、ここでピアノを弾いていたのは誰だ?」 「!!」 ツナは漸く、理解した。 モチダは自分のピアノを、聴いてしまっていたのだ! そして、あの女性が此処にいるのだと、思い込んでしまっているのだ。 開けたままになっているピアノに、視線を向けると、モチダは再び、ツナに問いかけた。 「サワダ、此処に女性が来ていなかったか?」 「き、来てません…!誰も…」 「じゃあ何故、ピアノが開いている?」 「…今、弾こうと思って開けたんです」 そこまで言うと、モチダは意外そうに目を開いた。 「…ピアノを弾くのか?」 「−…は、はい…」 「少し弾いてみろ」 ツナの心臓は跳ね上がった。 古いピアノの、古い椅子に腰掛けると、軋んだ音がした。背もたれの部分が半分ほど、崩壊している。 モチダはその椅子を始め、ツナの家を少し見回した。 あまりにも、自分の家とは違いすぎる部屋。 壊れたランプに、数切れのパン。 パンの他に食物は見られなかった。 窓からは隙間風が入ってきて、身体を凍えさせる。 (…酷いな…) 一つ息を零しただけで、何も口にはしなかった。 ツナは椅子に腰掛けたまま、動かない。鍵盤に手を乗せようともしなかった。 「どうした?」 「凄くヘタクソなんで、やっぱり失礼かと…」 「構わない。いいから、弾け」 此処で弾いたら、バレてしまうんじゃないだろうか。 何とかバレないように弾かなくては!と、ツナは、全神経を集中させた。 ベチャ、っと、指を平らにして、掌をくっつけるように、鍵盤に置いた。 そのまま、ごく簡単な、小さい子供が弾くような指の練習曲を、奏で始めた。 「…掌を鍵盤にくっつけるな。音が酷い。手首は鍵盤より上に上げろ。 …もっと指をー…、ああ、違う。卵を持つような形にしてみろ」 モチダは卵を部屋から探そうとしたが、勿論そんな物はない。 食べ物がなさすぎる家に、モチダは驚いた。 モルス通りの貴族達の家ばかりにお邪魔していたので、こんな家に来たのは初めてだったのだ。 ツナは鍵盤を叩くようにして、音を出した。 まるで、何も知らない、やんちゃな子供がピアノで遊ぶように。 モチダは頭が痛くなってきた。 酷いピアノだと、そう思った。 「…スタッカート。指ではねさせるな。ちゃんと手首を使え」 モチダが助言しても、全く上手くならないツナに、重たい溜め息を吐き出すと、 漸く彼は、「もういい」と言った。 ツナはホっと肩を降ろした。 ーこの場に、ノクターンの楽譜がなくて良かったと思う。 皮肉なものだ。 父に燃やされた時は、あんなに悲しかったのに、今はそれで助かっているなんて。 「…本当に、女性は来なかったのか?」 「…はい」 モチダはガックリと肩を落とした。 今度こそ仮面を付けていない彼女に会えると、思っていたのだがー。 会いたい、という気持ちが強すぎて、彼女のピアノの幻聴でも聴いてしまったのだろうか。 (−…馬鹿か、オレは…) 女に心を乱すなどーみっともない。 こんな真似はもうせずに、舞踏会まで、待たなければ。そう、心に誓った。 ー恐ろしい時間だった。 何とかモチダに気が付かれないで済んだが、非常に危なかった。 まだ落ち着かない胸を沈めようと、水を一杯飲むが、どうにも収まらない。 しかし落ち着かないからといって、今日の仕事を休めるはずもない。 ツナは一つ息を吐き出すと、煙突掃除に出かけた。 父にドレスも扇子も渡してはいないが、置いておけば勝手に奪っていくのだろう。 …女の元に。 写真の中で、少女のように笑う母の笑顔が目に入って、心が痛くなった。 「−…いってきます」 そっと、母に向かって囁くと、ツナは部屋を出た。 顔に炭をつけたツナが、家路についたのは、もうとっぷりと暗くなってからだった。 月明かりに照らされた時計台は、もうじき7時を指すところだ。 「−…父さん、帰ってるんだ」 家に明かりが着いているのが見える。 ドレスも扇子もあるのだから、怒られはしないだろうがー… それでも何だか、落ち着かない。 昨日の凄まじい父の怒りが、まだツナの頭に残っていた。 おそるおそる扉を開けると、胸元を露出した、派手なドレスを着た女性と父、二人が部屋の中に居た。 その女性は頬を染め、興奮した様子で、ツナが「誰か」から貰ったドレスを広げていた。 「こんなドレス、見たことないわ!まあ、これはきっと、私の為ー…なのね。 シュウ、貴方って何て素敵な人なの?」 女性がうっとりと父の頬に触れると、父は誇らしげに笑った。 「オレにかかれば、こんなドレスの1着や2着は直ぐに用意できるさ」と。 うっとりした女性は再び、父から視線を移し、今度は扇子を手に取って、嬉しそうに、柔らかな毛に触った。 「−…ただいま…」 「食べるものなんてないぞ!」 「…うん。大丈夫…」 数切れあったパンも、食べてしまったらしい。 パンのことよりも、父が不機嫌でなくて良かったと、その気持ちの方が強かった。 それに今日は、雇い主がキッシュを一切れ、ご馳走してくれたのだ。 余ったものだから、勝手にしろと言われたツナは、迷わず口に放り込んだ。 ー空腹だったのだ。 所々に炭をつけたツナに、視線をやると、女性はクスリと笑った。 ツナは恥ずかしくなって、ふきんで顔と手を擦った。 「…貴方の子供?」 「ああ。この街では有名だ。”ダメツナ”−…全く忌ま忌ましいガキだ」 「あら、そう。可愛くて、小汚い坊や。灰が良くお似合いなのね! けれど炭をこの部屋に持ってこないでちょうだい!シュウ、私のドレスに、塵一つでも付けたくないわ」 女性がシュウに頼むと、彼はツナを一睨みした後、怒鳴りちらした。 「そら!早く行け!気が利かない奴だ、全く…!出て行け!」 ああ、やはりー…。 今日は怒鳴り声を聞かなくて済むー…、と、そう思ったのだが、甘かったようだ。 ツナはそっと、部屋を去ろうとした。しかし、思い出したように、父が叫んだ。 「今日の稼ぎは置いていけ!」 ツナは何も言わず、テーブルにコインを2枚、置いた。 扉の向こうの世界は、寒い。 家の中も、隙間風が入り放題なのだから十分寒いのだが、それでも壁が、屋根がある分マシだった。 (…ディーノさん、いるかな…) 家を追い出されなくても、向かいたかった場所を思い描くと、ツナの胸は温まってきた。 しかし、手はかじかんでいて、もはや麻痺していた。 自分の手に息を吹きかけながら、噴水の広場へ向かう。 キラキラと水が光る噴水を通り過ぎ、いつものベンチへ向かう。 「…ディーノさん、いますか?」 「おー、いるぜ。ツナ」 いつもの優しい、ディーノの声が耳に入ると、ツナはホウっと、心から安堵した。 辛く、悲しい事があっても、ディーノの声を聞くと、心が温かくなるのだ。 (−…安心する…) 今日はモチダが来て、父が居て、父の恋人も居てー ああ、母の写真を伏せてきてあげれば良かったのだ。母も、あんな場面は絶対に見たくないだろう。 煙突掃除もして、灰だらけになってー…、酷く、疲れた。 瞳が、ゆっくりと瞬きをし、次第に、閉じられていく。 「ツナ?…聞いてるか?」 何も返事をしないツナが心配になって、ディーノはヒョイと、屋根から仮面の顔を覗かせた。 ツナは細長いベンチに、コテリと横になっていた。 「ー…!?」 スマートに、屋根から、地上に降りる。慌ててツナの顔を覗くと、すうすうと寝息を立てていた。 寝ているらしいことが分かったディーノは、やれやれと、肩を降ろした。 「寝るか…、普通…」 腰を降ろし、マントをかけてやると、マジマジとツナを見つめた。 こんなに近くで、ゆっくりと彼を見るのは、始めてだ。 寝息を立てているツナは、可愛くて、愛おしくてー…、 ああ、これはーこの強く、果てしなく溢れ出るものは、本当に自分の感情なのだろうか、 と、疑う程、ディーノはツナに思い焦がれていた。 仮面の下で、優しい笑みを浮かべながら、ツナをじいっと見つめた。 『ファントムよ!恐ろしい、−あの化物を、この目で見たのよ! 人間じゃないのよ、恐ろしいわ!』 女性の悲鳴が、すすり泣く声が、ディーノの頭に蘇る。 呪われてしまったのだー、と、嘆く声。 瞳を曇らせ、己の顔に手をやると、冷たい仮面の感触しかしない。 その手を、そうっと、躊躇いながら、ツナの方に手を伸ばす。 「ん……」 唇から、吐息が漏れ、思わず手を離した。 しかし、ツナはまた気持ち良さそうに寝息を立てた。 柔らかそうな髪に、触れてみたかった。 そっと、そっと、ツナの髪に手を伸ばす。 優しく撫でると、ツナは少し、微笑んだような気がした。 気持ち良さそうに、撫でられている。 「…ツナ」 静かに、ツナを呼ぶと、ツナも唇をモゴモゴとさせた。 声という声は出さずに、微かに、ディーノの名を、唇で呼んでみせた。 ”ディーノさん” それっきり、唇は動かなかった。 また、気持ち良さそうな寝息だけを立てる。 寝ていても尚、自分の名を読んでくれるツナに、デイーノは溢れ出る愛しさに、堪らなくなった。 ツナを、この愛しい存在を、いっそ閉じ込めておけたらいいのに! このまま眠るツナを、攫っていってしまいたい。 ディーノは、ツナの頬を軽く撫でると、彼の額に、キスを落とした。 |
ディーノさんはツナが好きで好きで 仕方ない模様…!
モチダは残念でした。<舞踏会で頑張りたまえモチダよ