目覚めたツナが、ディーノの後を追って、辿りついた場所は、噴水の広場の地下だった。 ガラス張りの、ピアノ一つが置いてある部屋は、地下へと通じる階段があったのだ。 薄暗く、ランプが一つだけ灯った地下の小部屋にもまた、ピアノが一つ、置いてあった。 ツナが滑らかに指を滑らせると、まるで鍵盤は生きているもののようになった。 柔らかく、優しくー…ツナが作り出す音は、デイーノの心に染み渡る。 音がこんなに癒されるものだと思ったことはない。 この少年の全てに、魅了されていた。 「…あの、ディーノさん。…そこにいますか?」 顔を見られたくはないのだろう、というツナの配慮だった。 実際、ディーノは気にしていた。その事は、ツナにも十分伝わっていた。 だからツナは、決して、ピアノを弾く途中、振り返ったりはしなかった。 前を向いたまま、後ろに居るはずの彼に、話し掛ける。 「ああ。…悪いな。聞き惚れてた」 ディーノの賛辞に、ツナが小さく照れ笑いしたのが分かった。 コツ、と、冷たく固い、地下の床に、ディーノの足音が響く。 そのまま前へ歩いていくと、ツナのすぐ後ろまで来た。 「いるぜ、ちゃんと」 ディーノが近づいたのがわかって、ツナは胸をドキドキとさせた。 すぐ側に、彼が居る!いつも、屋根の上の届かない人、自分の、絶対の支えである人が。 肩に何か当たり、ツナは驚きで身体を揺らした。 ディーノの手は、行き場を失くして、ピタリと止まっていた。 ツナの「ビクリ」という反応を、どう捕らえたのかー…。 微かに指先が動き、まるで、何かに怯えているような、迷っているような手だった。 前にも一度、あったなと、ツナは雨の日の事を思い出していた。 唯一、ディーノと近づけた時間。 あの時も、彼は戸惑いながら、自分に触れてきた。 ディーノの手にそっと触れると、ツナはその体温に驚いた。 氷のように冷たくなった手は、何処か寂しそうな表情をしている。 あまりの冷たさに、ツナは戸惑っていた。 ディーノはツナから少し手を離すと、ピアノを弾くよう促した。 (駄目だ…、さっきから…) 女性の震える声が、夥しい悲鳴が、自分を見て、顔を覆い、人生は全て終わったのだと嘆く人間の姿が、 頭の中でずっと、映像と音声でもって流れているのだ。 呪われた存在。 それが、自分の全てー…。 手を引こうとしたディーノだが、そうはできなかった。 凍った自分の手に、温かな体温が、重なっている。 ツナはディーノの手を優しく撫でると、一層冷たい指先にそうっと触れた。 いつも、水場の仕事は、手が千切れるかと思うほど痛く、指は真っ赤に染まってしまう。 特にこの時期は酷い。 何十皿洗ったか分からないほど、大量の皿を洗い終わると、手は自分の手では無くなってしまう。 感覚など、まるでなかった。 彼の手は、どうだろう。 水に浸かってもいないし、氷を隠し持っている訳でもないーのに、それなのに。 まるで人肌を永遠に知らない者のようだ。 自分の体温さえも知らない、闇の者のようだ。 「……ディーノさん、お手本に弾いてくれますか」 「いいぜ。何がいい?」 「−…うーん…。また、木枯らしのエチュードが聴きたい」 ツナは席を立つと顔を俯かせ、ディーノが席に着き、後ろ姿を見せると、また顔を上げた。 あの激しい曲なら、ディーノの指も少し温まるのではないかと、そう思ったのだ。 ツナがそんな思いを寄せる中、ディーノの指先はもう温まっていた。 ツナが触れた部分から、徐々に溶けていくようだった。 醜い嫉妬を剥き出しにして弾いてしまったこのエチュードではなく、優しく甘いバラードを聴かせてやりたい。 鍵盤に手を乗せようとした、その時であった。 ツナが、思い出したように、静かな空間に声を発した。 「ー…ディーノさん、なんですか?」 「ん?」 「ー…ドレスに扇子。ランプに食器ー…。それに、薔薇の花束ー…」 あんな高価な贈り物。 もしもディーノが贈り主なんだとしたら、どうしたらいいのだろう。 いつも慰めてもらっている上に、自分では到底手出しできないような、高級品ー…。 「…薔薇のー…。ああ、ツナが前に言ってたヤツか…」 「昨日は、ドレスに扇子に、ランプと食器も」 「残念だけど、違う。オレじゃねーな」 「−…そ、ですか…」 拍子抜けしたように、ツナが肩を降ろすと、今度はディーノから質問を投げかけた。 「昨日は大丈夫だったか?何もなかった?」 「はい。父も昨日は無理な要求はしなかったしー…。あ、でも、昨日はモチダさんが」 「…モチダ?」 「…?…い、家に、来て…。オレがあの女性だって、ばれそうになってしまって」 モチダの名が、ツナの口から出た途端、ディーノの声は、底が無いほど、低いものになった。 ツナはそれに驚き、返事をする時、少し控えめになってしまった。 「ばれなかったから良かったんですけど…」 「…そうか」 微かに聞こえる程の声で返事をすると、瞳を閉じ、鍵盤を見つめた。 このまま声を出してしまえば、言葉を交えてしまえば、きっとー…。 口にはしない想いの全てを、鍵盤に叩きつける。 ああ、またあの夜と同じこと! しかし、仕方が無い。どうしようもないのだ。 口に出してしまえないのなら、音に乗せて届けることしか、自分はこの激情を抑える術を知らない。 自分の音に嫌悪しながらも、ディーノの音は鳴り止まなかった。 翌日、キョウコの家に本を返しに行こうと、モルス通りの大通りの方へ出ると、男達が何者かに群がっていた。 キョウコの家付近ー…ああ、あれはキョウコだ。 顔を覆い、深い絶望を表すように、頭を下に、下に寄せている。 彼女の周りには、それを気遣って、男達が何か声を掛けているようだ。 「キョウコ、ちゃん…?」 ツナがキョウコの側に寄ると、他の男達が、ツナを見下したように笑った。 街の誰からも愛されるキョウコに声を掛けるなんて、無謀なヤツだとー 「!ツナ君…!私ー…、」 男達を押しよけ、ツナの許へ駆け寄るキョウコに、彼等は驚いたような、面白く無さそうな顔をした。 「ど、どうしたの?」 「昨日、ファントムを見たの…っ、呪われてしまうわ…!」 「ヴィリカのー…ファントムを…?」 「…、仮面をつけていてー…、半分ー…、でも、もう半分の顔を暗闇の中で、見てしまったの…っ」 恐ろしくて醜いー見た者を全て、絶望に突き落とす顔! キョウコは再び、手で顔を覆ってしまった。 「…でも、街の噂は?半分は綺麗な顔って噂もー…」 「噂は色々あるのよ。…どれが本当か、どれも本当なのか、わからない…」 「−………」 「でも、恐ろしいのは事実だったわ」 キョウコが深い悲しみを態度に出すと、男達は口々に、勇敢だと思わせる言葉を吐いた。 「キョウコ、そんなに悲しんで。俺が守るのにー…」 「化物なんて、俺が殺してやる!」 「そうだ、俺達が守る。恐がることなんて、何ひとつないさ!」 男達の言葉に、ツナは何かを言いたかった。 しかし、実際ー何と言っていいのか、分からなかった。 ファントムは、ディーノだ。彼は、そう言っていた。 皆、彼を誤解しているのだ。 あんなに優しい声を聞かせてくれるディーノが恐ろしいなんて。 しかし、自分が言ったところで、誰も信じてはくれないだろう。 悔しい思いを抑えながらも、黙っていると、キョウコの前に、影が出来た。 「−…キョウコ?どうした?…何を泣いている?」 いつも明るく、笑みを浮かべている彼女の、あまりに絶望的な姿は、モチダを驚かせた。 「モチダさん…」 キョウコがすっかり、昨夜の事を話すと、モチダの顔は険しくなった。 彼はヴィリカの街を、とても好きだった。多少、噂が多く、人々に好奇心が多すぎるのは問題だと思っていたが。 それでも、彼はこの街を愛していた。 故に、この街の平穏を乱す、”ヴィリカのファントム”は、憎むべき存在だったのだ。 「あの化物…!」 モチダがギュっと拳を握ると、他の男達はビクビクとしながら、姿を消していった。 「見知らぬ、謎の貴婦人に想いを寄せている」というモチダの噂は勿論、有名であったが、 それでも彼等はまだ、モチダがキョウコを好いているものだと思っていた。 男達の群れが去ったキョウコは、自分のハンカチで優しく涙を拭うと、直ぐに笑顔を出した。 「ごめんね、ツナ君。変な所見せちゃって…。ツナ君、今からお家にお邪魔してもいい? 久しぶりに、ツナ君のピアノを聴いたら元気が出そうなの」 「うん。もちろー…」 快く返事をしようとしたツナだったが、モチダの前、という事を思い出し、そのまま、返事を飲み込んでしまった。 「−…ピアノ?−…キョウコ、こいつのピアノは聴いても元気は出ないと思うんだが…」 「まあ、モチダさん。失礼な人ね!ツナ君のピアノって、凄く魅力的なのに! きっと、妹君にも負けていないと思うわ。特にノクターンは最高なのよ」 ツナのピアノを、いかにも「ヘタクソ」呼ばわりするモチダに、キョウコはカっとなって言い返した。 あまりにも素敵な彼のピアノに対してのモチダの言葉が、キョウコは許せなかったのだ。 しかし、言ってから、ハっとした。 ツナがマズイ、という顔をして、視線を下に向けている。 (私ったら…!) 自分の過ちに気がつき、キョウコも、顔を歪めた。 「−…ノクターン?サワダ、お前ー…弾けたのか?」 ベチャリ、と指を鍵盤に乗せ、 叩くような音の出し方でもって、あのロマンティックな曲を弾いたのだろうか。 信じがたいことだ。 「や、弾けるわけじゃー…」 焦って、首を横に振るツナに、モチダの頭に、ある女性が、フラッシュバックした。 いつも、何を答えても、声を出してはくれず、首を横に振り続けていた、あの女性。 自分の心を攫って行った、あの、不思議な女性が。 (−…なんだ?) ツナを見て、 ー … 何故だろう。 どこか、重なる。 首を振る仕草。 そして、ノクターン − 。 何かが一つに繋がったような気がした。 モチダは信じられない事を発見したように、目を見開いた。 |
も、モチダサン…?(ガタガタ)
キョウコちゃんはモテモテ!街のアイドル的存在です。