ゆっくりと椅子に掛け、ピアノを開く。 ちら、と後ろを振り返ると、老人は優しく微笑んだ。 ツナは戸惑いながらも、鍵盤に手をそうっと乗せた。 手がまだ、弾くことを迷っている。 軽く首を横に振ると、今度こそ指を滑らかに滑らせた。 弾いたのはやっぱり、ノクターン2番であった。 何故ばれているのだろうーという不安な気持ちも、弾いている内に段々と、薄れてきた。 ここの主が悪い人には思えない。 きっと知っていても、吹聴したりはしないだろうし、−きっと心配はない。 ツナのピアノの音色でもって、たちまち部屋中が甘い空気で満ち溢れた。 ロマンディックな曲を奏でられ、メイド達は瞳をぼんやりとさせて、それぞれの愛しい人を頭に思い浮かべた。 曲が全て終わると、後ろから力のない、しかしゆっくりと気持ちの込められた拍手が送られた。 「素晴らしいー…」 「い、いえ…あの、どうして、分かったんですか?」 「君の家の前を通る時に、偶然聞こえてなあ。私はそれを聞くのが、毎日の散歩の楽しみになった。 嬉しかったよ。素晴らしい演奏を聴けたんじゃからな。そしてモチダの家の舞踏会ー あの、音色。そりゃあ、分かるさ」 モチダの息子が心を乱している、謎の貴婦人とは君の事だね? そう続けられ、ツナはいよいよ、言葉に詰まった。 「安心しなさい、ー…言いはしないのだから」 「はい…」 「ただ時々、此処に来て、ピアノを弾いてくれ」 「勿論…そんなの、いくらでも」 その時であった。 コンコン、と扉が鳴り、メイドが入ってきた。 銀の盆にティーポットと、カップが二つずつ乗っている。 そして、チョコチップが散りばめられた、ふっくらとしたスコーンが4つ程乗っている皿。 ついつい、目がいってしまい、ツナは慌てて視線を逸らした。 こういう、高級そうな菓子は、たまにキョウコの家に行った時にしか食べたことがない。 ゴクリと、唾を飲んでしまう。 それを見透かしたように、老人は笑うと、スコーンの入った皿をツナの前に差し出すように、 メイドに命じた。 「食べたいだけ、食べなさい」 「あ、あの、でも、−…ええと…」 「トシロウ、じゃよ」 「す、すみません」 「いいんじゃよ、もうずっと、息子が君等の仕事を指示しておったはずー知らないのも、無理は無い」 「…あの、トシロウさんは食べないんですか?」 緩やかに、首を横に振る。 元気の無い様子に、ツナは眉を寄せ、少し首を傾げる。 さっき、使用人が言っていた言葉を思い出す。 「最近は元気が無い」のだとー 「…いただきます」 シュンとしてしまったが、トシロウには微笑みを向けて、それを食べる。 ほっこりとした食感で、とても美味しく、モゴモゴと口を動かしているツナを、 トシロウは目を細めながら見つめた。 そして、言った。 「君とまた、話がしたい」と。 煙突掃除のある日は勿論、トシロウの部屋を訪ねたし、無い日も段々と訪ねるようになっていった。 トシロウと居ると、和やかに時が流れた。 何気ない会話をしたり、ピアノを聞かせたりー 昔、腕のいいピアニストだったらしいトシロウは、調子の良い日には、ピアノを弾いて見せた。 ツナはそれを、目を輝かせながら見ていた。 彼と居ると、何故だか母親の事を思い出した。 男の人なのに、おかしいと思うかもしれないがー何だか、母親と居るようなー そんな安心感に、包まれるのだ。 此処での時間を、ツナは大切にしていたし、それはトシロウも同じことだった。 ツナが頻繁に部屋を訪れるようになってからというもの、トシロウの体調も、 少し回復に向かっているかのように見えた。 「その館の主のお爺さんー、ピアノも凄く綺麗だった」 「へえ」 「それに…母さんと話してるみたいな気がしてくるんだ」 変だよね、と笑うツナを、ディーノは仮面の下で優しく微笑んだ。 噴水の広場で、屋根の上と下で会話を交わすー 顔を見せた夜からも、ディーノは必要以上に、姿を晒すことはなかった。 「ー…ツナ、寂しい?」 「え?」 「…母親もいない、だろ?父親はー…聞いてる限り、オレには殺意しか湧かねーし」 「……ううん」 大丈夫、と、ツナは、か細いが、しかし芯のある声で、返事をした。 「キョウコちゃんも、トシロウさんも、ーそれに、ディーノさんも居てくれる」 「−……ああ」 ツナは、自分を必要としてくれている。それが、ディーノの心をじんわりと、温かくさせるのだ。 しかし、自分はきっと、ツナが必要としている以上ーずっと、ずっと、それ以上に、 ツナが必要なのだ。 「明日は、とうとう舞踏会だー…。何だか早い…もっと、時間があるものと思ってたのに」 「ツナなら、上手くやれるさ。きっと最高の演奏が出来る」 「−…うん」 ああ、可哀相に。きっと、不安で押し潰されそうなのだろう。 震える身体を、抱きしめてやりたい。 触れる事を、許して欲しい。 そしてきっともうすぐ、この愛しい少年を攫っていってしまうだろう。 ーどうか、許して欲しい。 ツナが、愛しすぎるのだ。 とうとう、仮面舞踏会がやってきた。 この日の為に、ディーノにピアノの指導をしてもらったし、きっと、上手く弾けるだろう。 ーしかし、しかし、ピアノの事だけが心配の種というわけではないのだ。 むしろ、仮面の下の、本当の自分の姿の事の方がよっぽど心配だった。 この間のことで、モチダが妙に神経質になっていないか、とても心配だった。 (バレたら、どうなるんだろう…) 彼のような、位の高い貴族を怒らせたら、ただじゃすまないー それを思って、ツナはゾっとした。 『華奢な身体ーそして小柄で柔らかな雰囲気。ツナにはこれを』 トシロウの命じたドレスを、メイド達はツナに着せていく。 キョウコの家ではなく、トシロウの願いで、ツナは彼の家で身支度をするようになっていた。 キョウコとは、この後に落ち合うつもりだ。 純白のドレスはシンプルで、貴婦人達が好む、ゴテゴテとした飾りは一切ない。 胸元の品に溢れたレースと、大きすぎないリボンがあるだけだった。 しかしそれは、ツナにとても良く似合っていた。 粉を叩かれ、ほんのりとした頬紅を入れられ、仕上げに、淡いルージュも引かれた。 もしも隙が出来ても、化粧のせいで分からなければいいのにー…、ツナはそう思った。 軽く、紙で唇を押さえられ、色を馴染ませられる。 紙が唇を離れた瞬間、メイド達から、感嘆の息が漏れた。 「まあ…お美しいことー…」 天使のよう、と口々に言ったメイド達に、ツナは頬を赤らめた。 頬紅のせいではなく、本気で恥ずかしかったのだ。 自分は男なのに、女の格好をして、勿体無い程の褒め言葉を貰うのは複雑な気分だった。 「トシロウ様の目は、確かですわ。ドレスも良く、お似合いでー…」 「ねえ、まるで実の子のような目で、見てらっしゃいますものね」 「さあ、美しい姿を、お見せしに行きましょう」 メイドに促され、ツナは支度部屋を出た。 |
とうとう仮面舞踏会!
モチダが頑張り出します(笑)勿論ディーノさんも!