こんな時間に失礼だろうと思いつつも、トシロウの容態が気になって、ツナは自分の家へ向かうのより先に、
トシロウの屋敷へ向かっていた。
足が、段々早くなって行く。少し歩いていない街中は、特に変わった様子は見られず、夜になると不気味なくらいに静まり返っていた。それはやはり、まだ街に流れる噂ー怪物の、ファントムのせいであったのだろう。
漸く大きな門が立ち並ぶ、モルス通りの、貴族達が多く住まう場所に出た。
一際大きな屋敷は、モチダの屋敷だった。何だか懐かしさが込み上げ、そこを見つめてしまっていたが、
すぐにトシロウの屋敷の鐘を鳴らした。
黒く長いスカートに、白いエプロンを纏ったメイドがすぐにツナの前に現れる。
ハンカチを片手に、持ちながら。
その時、ツナの胸に、嫌な予感めいたものが走った。

「−……あ、の…」
「あ、ら…お久しぶりね。どうぞ。−…どうぞ、中にお入りになってー…」

重みを増した胸を押さえながら、ツナは階段を上り、彼の部屋まで行った。
銀色のノブに触れ、静かに部屋に入ると、ベッドに横たわったトシロウの姿が見えた。
ゆっくり、ゆっくりと、彼に近づくと、彼の瞳がこちらを向いて、漸くツナは、ほっと胸を撫で下ろした。
少し苦しそうに、眉を寄せたのが気になって、ツナは早足でトシロウのベッドの許に行くが、
本当に気のせいだったのかーと、ツナに思わせるほど、彼は上品に微笑んだのだ。

「…久しぶり、です…」

うっすらと、しわしわの唇を開き、おお、と掠れた声が耳に入り、
ーそして、起き上がらずに、手だけをツナへと伸ばした、その仕草に、ツナはトシロウの衰弱を知った。
それでも正常を装い、ツナはトシロウに、ただ、ただ、撫でられていた。

「もうすぐ、誕生日だって聞きました」
「知っていてくれたのかい。…その日には、ピアノを弾いてくれるかね」
「なんでも、好きな…曲を…」

目じりに皺を寄せ、また微笑まれた。
−嬉しいことのはずなのに、彼が微笑むたびに、何だか胸が、痛くなってしまうのだ。
堪えられず、少しだけ、瞳を潤ませると、トシロウはピアノを指さし、ツナに向かって頷いた。
弾いてくれ、ということなのだろう。

此処を、離れたくなかったが、ツナはそろりと立ち上がり、ピアノに向かって歩き出した。
これほど鍵盤に触れたくなかったのは、生きてきた中で、初めてのことだった。
ゆっくりと鍵盤の上に指を下ろし、限りなく上等な曲を、彼に聴かせてやりたいのにー
集中できなくて、涙が出てきてしまって、なかなか、ツナはメロディーを奏でることが出来なかった。

(……嘘……、)

鍵盤に、ポタンと、涙が零れ落ちる。
こんなことじゃ、弾けないーと思い、後ろを振り返る。
既にボタボタと涙が溢れ出てしまって、鼻水まで垂れて、嗚咽だけは何とか堪えていたが、
見苦しい顔を、トシロウに見せてしまった。
しかし彼は穏やかな表情で、微かに頷いた後、音の鳴らない拍手を、ツナに送った。
慌てて涙と鼻水を拭うと、トシロウのベッドまで駆けて行き、柔らかな布団に顔を埋めた。
そうしていると、また泣いてしまいそうになる。

トシロウは、優しく、何度も、一定のリズムでもって、ツナの頭を撫でていた。
誕生日には、絶対に素晴らしい演奏を彼にプレゼントしようと心に決めた時、急に、手の動きが止まった。
ツナが顔を上げ、トシロウを見ると、−その瞬間に、理解してしまった。
もう、此処にはいないのだということを。
メイドはトシロウの側に駆け寄ると、一斉に泣き出した。
医者が呼ばれ、バタバタと騒がしくなったが、ツナは何処か遠くを見たまま、静かに、トシロウの部屋のピアノの側で、
突っ立っていた。
もっとたくさんの時を、共にしたかった。
短すぎた。
彼との時間は、確かに短すぎたが、それでも、あの煌いた時を、一生忘れはしないだろう。
その場に崩れ落ち、ひっそり、ひっそりと、ツナは泣いた。












一晩をトシロウの家で過ごした。
泣きはらした目は、父親に何か文句をつけられるかもしれないが
(それを言うのなら、先に今までどこをほっつき歩いていたのだと、怒鳴られると思うが)
とにかく、泥のように眠ってしまいたくて、ツナは家に向かって歩き出した。
悲しいことがあったからと言って、塞ぎこんでいる訳にはいかないのだ。
仕事を探さなければならなかった。
それでも今日は眠ってしまいたくて、ツナは何も考えずに、家に向かった。
懐かしい我が家から、女性の声が微かに聞こえた。それに混じって、男性の声も。
懐かしむ前に、父親が居る恐怖の方が大きくて、ツナはドキドキしながら扉を開けた。
だが、目の前に広がったのは父親の姿ではなく、一人の女性と、一人の男性と、一人の女の子だった。
家族団らん、今朝食をしています、といった光景であった。
ツナは訳が分からず、ポカンとしてしまった。

「…あんた、誰だい?」

突然入ってきて何も言わないツナに、女性が不審者を見る目つきで、じろじろとツナを見つめた。

「あの、ここ……オレの家、…」
「何だい?今の持ち主は私らなんだよ!前の持ち主から、ちゃんと金を払って買ったんだから!」
「は…−……?あ、あの、オレ…此処に前住んでいた、サワダの息子なんですけど」

言っている意味が良く理解できない。
いや、理解はできるのだが、…理解したくなかった。
あまりにも受け入れ難い事実に、ツナは言葉を失ってしまった。

「…息子?…なのに何も聞いてなかったのかい?」
「…は、い…。あの…父は…」
「さあねえ。他の街にでも行ったんじゃないのかね。借金があるとか、言ってたよ」
「……お、女の人の写真とか…家になかったですか!?」

母の写真。もしかしたらーと思い、ツナが問いかけた言葉を、女性は首を傾げて、手を振った。

「そんなもん、何もなかったよ!…気の毒だけど、さっさと帰ってちょうだい!」

強引に胸を押され、外に出されて、勢い良く扉を閉められた。
何もかもが、信じられなかった。
ー父も、いない。トシロウも、母の写真も、楽譜も、全てを失ってしまった。
それなりに父のことも心配して帰ってきたというのに、あまりの仕打ちだった。
頭が真っ白になり、それでもツナはふらふらと歩き出した。

ー仕事を、探さなければ、と。


既に何の気力も残っていなかったが、ふらり、ふらり、と、以前勤めていた場所に行ってみた。
いつも入っていた、大きな店の裏口をノックし、コック長を呼んでもらう。
膨れ上がった大きな身体が、ツナの方に向かってくると、その姿を見て、眉を顰めた。

「もうトシロウの爺様は亡くなったんだろ?悪いがお前を雇う必要も、もう無いわけだ」
「−……え?」
「ここら辺の働き口みんな、あの爺さんがお前を後押ししていたんだよ」

彼の話は、本当だった。
毎日の仕事は忙しかったが、それでも職があるだけ良いのだと、思っていた。
そして、不思議だった。何故、ダメツナと呼ばれ、年も若い自分が雇ってもらえるのかが。
ー全ては、トシロウのおかげだったのだ。
彼とツナが親しく話し始めたのは随分後だが、トシウは随分前から、ツナのことを知っていた。
散歩の途中に、時折、壊れそうな家から聞こえる、美しい音色を。
トシロウが影から支えるのは、その、せめてものお礼だった。
ツナは、愕然とした。
まさかトシロウが、そんなことをしていてくれたなんて。

(−……あの、花束やドレスも…?)

見事な薔薇の花束に、ドレスに、扇子に、ランプに、食器ー
ツナが困った時に送られる、数々の高価な品々。
ーそうだとしたら、そのことも。
お礼も何も、言えていなかったのだー…と、ツナはまたトシロウを思い出し、涙しそうになるが、
ぎゅっと目を擦って、次の場所へ向かった。

やがて日は落ち、薄暗くなってきたのに、ツナはまだ、ふらふらと歩いていた。
まるで何かに取り憑かれたかのように、遠くを見たまま、ふらり、ふらり、と、歩いていた。

(…仕事ー…、探さないと…)

ああ、それよりも今日、寝る場所がない。
食べるものも、今日も明日も、何もない。
ぼんやりと考えながら、疲れた足を休めようと、道の隅の方にヘタリ、と座り込んだ。
カクンと頭を下げれば、このまま眠ってしまいそうだった。
それほどまでに、ツナは疲れ果てていた。

「−……サワダか?」

上から、自分を呼ぶ声が降ってきた。
のっそりと頭を上げると、ツナの鼓動は跳ね上がった。

「…モチダさんー…」





はー><ディーノさんが出てこない…!
しかもモチダがきてしまわれました(笑)ヒエ〜…




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