ルリはワナワナと、羽の吐いた扇子を持つ手を震えさせると、バシっと、その扇子をツナ目掛けて
ぶつけた。ツナは小さく声を上げたが、直後、ルリの発したヒステリックな声に打ち消されてしまう。
「いやらしい、こんな盗んだ指輪など持ってきて!信じないわ、貴方のこと!」
ツナは何か反論したかったが、何を言っても、ルリの心には届かないような気がする。
そう感じるほど、ルリの瞳は恐ろしかった。怒りで燃えている。
何故、ルリがそうまでして怒っているのかツナには理解できなかった。そんな瞳をさせる理由が、自分にはあっただろうか。
そんなに嫌われているのだろうか。
ツキン、と胸が痛んだが、ツナはそっと、その豪華なばかりの扇子を拾いあげ、ルリにそっと差し出した。
「いい加減にして頂戴!貴方って人は、私を馬鹿にしているの!?」
「そ、そんなー…」
「盗人が触った扇子など、私が持てると思って!?」
「オレ、盗人なんかじゃ」
「信じられないわ!いつかー…いつか貴方をこの屋敷から追い出してやるんだから!」
扇子をツナの手から奪い、大きく膨らんだドレスを揺らしながら、ズカズカと去っていく。
一気に疲れがきて、ツナは思わず肩を下ろして、ぐったりしてしまった。
自分はこの屋敷から出た方が、きっといいのかもしれないが、だが、モチダとも折角、親しくなれそうなのだ。
(それにー…2ヶ月後には、オレはもう戻るんだし)
ディーノとの約束だ。ディーノとの、約束。
2ヶ月後、戻って、そうしてその後はどうなるのだろう。もうずっと、外部と連絡が取れないのだろうか。
キョウコとも、モチダとも、今は何処にいるのか分からない父とも、ずっと会えないままなのだろうか。
それを思うとぞっとした。
けれど、大切なディーノとの約束だ。何があっても、守らなければならない。
ツナは指先を擦り、温めながら屋敷を出た。
今日も水仕事だった。モチダの紹介だからか、以前より怒鳴られはしない。
「上がっていいぞ!」と、大きな声が聞こえると、ツナはエプロンを取り、一つ、伸びをした。
扉を歩くと、真っ暗な中を一人、歩き出した。
手がカサカサと痛むが、文句など言えない。仕事を貰えるだけでありがたかった。
しかしやはり、痛いほどの風を受けて、冷たい手を震えさせながら歩くのは辛い。
はあ、と吐息を吹きかけてみても、一瞬暖かくなるだけですぐに凍えてしまう。
早く帰りたいー、足を急がせ、モルス通りを歩いていく。一際、大きな黒い門。
モチダの家が見えてくると、ツナはほっと胸を撫で下ろした。
屋敷に入ると、すぐに目に入ったのは豪華なドレスを纏ったルリだった。
ルリは楽しくて仕方ない、といった口許を隠すように、扇子をヒラヒラとさせていた。
「あら、ツナ。待っていたのよ。貴方にお客様がいらしていたから、お通ししたの。−…シュウ!いらっしゃいな」
ーシュウ?
ツナがまさか、と心臓を脈打たせた時、視界に映った人物は、薄汚い布切れのようなものを着た男であった。
まさしく、ツナの父親『シュウ』だった。
酒と女を好み、ツナが働いた金を奪い、母の楽譜を燃やし、家を売った人物であった。
それでもツナは懐かしかった。じんわりと、目頭が熱くなる。
「父、さん……どうしたの…、こんな、寒そうな格好…」
ツナが父と暮らしていた頃、していた格好とさほど変わりは無いのだが、父のこととなると、
ツナはその格好が気になって仕方なかった。
寒さに凍えることがいかに恐ろしいか、ツナは知っていた。
「ああ、ツナー…良かった、元気にしてたか。お前がモチダ様の所に厄介になってると聞いてな、心配したんだ」
「そ、そうなんだ…ごめん…心配、かけてたんだ…」
父に心配されたことなど、生まれて初めてだ。ツナは嬉しかった。
今まで、父は自分に酷い仕打ちだったかもしれないが、あれも、生きていく為に仕方なかったのだ。
これからはきっと、いい関係でやっていけるかもしれない。
ツナの胸に、希望が宿った瞬間だった。
「それでな、お前ー…、金は持ってるか」
ツナの表情が、一瞬にして固まる。また、金の話題を口にする父に、嫌な予感がしてならなかった。
きっと、きっと金が欲しいと言うのだろうと、安易に想像できた。
しかし、自分は金などない。給料だって、人に渡せるほどの額など貰ってはいない。
ツナは首を横に振るが、それでもまだ、シュウはツナに縋ってきた。
「なあ、頼む。この通りだ。もう住む所も何もないんだ。お前だって、父親を見殺しになんかできないだろ?」
なあー、と、シュウは必死に笑顔を作っているようだった。
また一緒に、仲良く住もうと言われたが、正直、住める所は自分だってないのだ。
ツナが俯き、シュウから視線を逸らすと、シュウは掴んでいたツナの肩から、手を離した。
わざと悲しげな表情を作り、今までのこと全てを話した。
付き合っていた女には騙され、借金を背負い、どうしようもないところに来ているらしい。
『このままいくと、オレは死ぬしかない』
うう、と、手で目元を覆ってみせるシュウに、ツナは困惑した。
自分にできることは何一つだってない。金のあてなど、何処にもないのだ。
パチン!
ルリが扇子を閉じ、赤い唇から、高らかな笑い声を上げた。
「ああ、面白い。貴方って、困ってる顔が一番似合うわ。貴方も此処を出て、シュウと一緒に暮らしなさいな」
「で、でも…オレ、住む所が…もう、」
「そう。でもそんな事、知らないわ」
ルリは相当、自分が此処にいるのが嫌なのだ。ツナは改めてそう感じた。
確かに、大理石にシャンデリアなどという世界とは無縁な自分には、この屋敷には不釣合い極まりない。
そういう人間が、自分と同じ空気を吸っているというのが、許せないのだろう。
元々、嫌われていたのだから無理もない。
ルリはツーンと横を向き、目を開かない。長い睫毛を、伏せたままでいる。
「−…シュウ?」
男の声が聞こえた途端、ルリは弾かれたように目を開いた。モチダが、ツナのすぐ横まで来ていたのだ。
久々に見た、ツナの父の姿に、モチダはすぐに不愉快の色を見せた。
息子を放って、家まで売り払ってしまったというツナの父親を、歓迎することなどできるはずがなかった。
モチダが一睨みすると、シュウはすぐにビクリと肩を揺らして、視線を逸らした。
意地汚いこの男が、何故ツナに顔を見せられるのだろう。モチダは心底、うんざりした。
「も、モチダさん…とんでもないことって分かってますけど、あと少しだけ、置いてもらえないですか」
「…?何、言ってる…、お前はいつまでも、好きなだけ居ればいい」
「−父、も…。ーも、もちろん、生活費は払います。給料全部、渡しますから」
モチダは耳を疑った。
あんな仕打ちを受けてもまだ、ツナはこの男に手を差し伸べようとういうのだろうか。
目で問いかけると、ツナはたちまち、床に視線を向けてしまった。
なんてことだ、と、モチダは心の中で呟く。
しかし、この少年は助けたい。ツナが、言うのならばー。
「−…金などいらない。好きにしろ」
「お兄様!何を仰ってるの?どうして、追い出さないの!?」
ルリの問いかけには答えずに、モチダはさっさと階段を上がって行ってしまった。
ツナは父に笑顔を向けていたが、ルリの表情と言ったら酷いものだった。
ワナワナと唇を震えさせ、扇子を握り締める手もまた、震えていた。
どうしてこの人間達を救うのか、理解が出来なかった。確かに兄は優しい。
それ故の行動だと思ったが、それでもルリは追い出したくて堪らなかったのだ。
ギリ、と下唇を噛み締め、ツナを睨む。
いつか何かをしてやるのだと、重たい闇の心の中で、その想いだけが充満していた。
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