ふわりと微笑んだツナに、ディーノは問いかける。 「ツナはいつも何を弾くんだ?」 「…ショパンのノクターン…、2番」 「へえ。他には?」 「…それだけ…、」 たくさんあった、母の楽譜。父が燃やしてしまった、楽譜。 残ったのは、ショパンのノクターン第二番だけだった。 それをディーノに話すと、ディーノは「なるほどな…」と、少し低い声で言った。 「教えてやるよ、今度」 「え?」 「オレもショパンは好きだからな」 「ディーノさん、ピアノ弾くんですか?」 「ああ、まあな」 屋根の上で、指を動かしているらしく、タタタ、と、音が伝わってくる。 その音でさえ、ツナを安心させた。 胸に手をやると、鼓動が落ち着いていた。さっきまでの不安は、嘘のようだ。 「ありがとう、ディーノさん」 屋根に向かって、優しい声を響かせると、ディーノは生きてきた中で、一番嬉しそうな笑みをした。 二人でルリの屋敷に向かうのは怪しまれる、という危険がある為、キョウコは先に出た。 ツナはまた、高まり出した鼓動を抑えながら、キョウコの屋敷を出て、ルリの屋敷へ向かう。 仮面をつけた姿で、キョウコから貰った、招待状を玄関先で出すと、使用人は快く中へと入れてくれる。 上にはシャンデリア、下は大理石。初めての、煌びやかな世界に眩暈を起こしそうになる。 ツナが通る度に、視線を送ってくる人々に、ツナは仮面が取れているんじゃないかと心配した程だ。 しかし、目元にはちゃんと、顔を隠す仮面で覆われていた。 仮面を付けていても、そこから滲み出る美しさ。控えめで愛らしい歩き方。 ツナは仮面を付けていても、十分に魅力的だった。 (どこに行けばいいんだろう…) 皆が踊り、ワインを飲み、優雅に会話をしている中で、ツナはキョウコや父を探していた。 とにかく、父の側に行かなければならないのだ。 折角覚悟を決めて来た、というのに、父に自分を見せなければ、来ているということが分からない。 「こっちよ!」 聞きなれた、優しい声の方に目を向けると、そこにはキョウコと父、そしてルリが目に飛び込んできた。 急に、心臓が跳ね上がる。 ああ、彼女を騙しとおせるだろうか…、父の満足のいく女性を演技できるだろうか…。 不安が容赦なく、ツナを襲った。 「あら、かわいらしい…方、ね」 「そうー…でしょう」 ルリも父も、驚いているようだ。 ルリは、まさかツナの父がこんなにも上品なドレスで、こんなにも白い、美しい肌で、 魅惑的な女性を本当に連れてくるとは思わなかった。 そして父は、ツナの変貌ぶりに、心底驚いていた。 あの、灰を被った息子が、見る者全てを惑わすような女性に、変わったのだから。 「本当ね!」 「い、いえ…ルリ様には敵いませんよ」 ルリが不機嫌になったのに気がつき、父親はペコペコと頭を下げた。 ツナの前では、あんな態度で、しかもルリの事も相当酷く言っていたが、ルリの前ではヘコヘコしている。 しかし、そんな父を呆れている余裕はなかった。 ツナはまだ、心臓をバクバクとさせていた。 「それで?ピアノはお弾きになるの?」 「ええ。とっても上手なの!彼女のピアノが素晴らしいから、是非お友達になりたくって!ツナ君のお父様に無理言って、紹介していただいたのよ」 キョウコがニコニコと、ツナの方を見て褒めるものだから、ツナは少し頬を赤らめてしまった。 「聞かせていただきたいわ。あっちの広間へ行きましょう?此処は人が多いから」 ルリが促し、4人は足を動かした。 父は、ツナの方をギロリと睨んでいる。「ヘマをしたら承知しない!」という意味なのだろう。 ルリは中々のピアノの腕前だと聞く。 果たして、ノクターン1曲で満足してくれるだろうか。他の曲を弾けと言われたら、どうしたらいい? ーそれは無理な話だ…、と、ツナは絶望的な気分になった。 さっきより幾分か小さい部屋に、ピアノが置いてある。 歩くのを戸惑っているツナに、ルリは「早くいらっしゃいな!」と、強く言った。 ヒールの音がカツン、カツン、と鳴るたび、歩くのが恐くなる。もう少しで、ピアノに届いてしまう。 「さあ、何を弾いてくださるの?」 「ショパンのノクターン2番が彼女の中で、一番素敵だわ。それがいいんじゃないかしら」 ツナの事情をすっかり知っているキョウコは、ルリに勧める。 ルリも頷くと、ツナはとうとう、椅子に腰掛け、鍵盤に触れた。 滑らかに鍵盤の上を滑り出した指と音は、ルリの瞳を見開かせた。 胸に響く、甘い音。 なんと甘美な音!こんな音を、もしも自分が出せたならー…! ルリは、目の前の女性が、憎くなった。自分の上をゆく、女性が。 わなわなと唇を震えさせたルリに、父が気づくと、直ぐにツナのピアノを中断させた。 「おい!もう止めろ!ー…いやあ、すいませんね。ヘタクソなもんで。ルリ様のピアノの足元にも及びませんでしょう?」 「…!おじさま…、なんてこと…!」 キョウコはあまりに酷い態度に、顔を青ざめさせた。 しかし、父はルリのご機嫌を取ろうと必死だった。彼女の機嫌を悪くすれば、この街に住めなくなるー。 そのくらい、ルリは「そういった」権力を握っていた。 場がシイン、と静まり返った時、大きな拍手が、ゆっくりと響いた。 「素晴らしい」 4人がハっと目を向けると、そこには一人の男性が立っていた。 遠目から見ても美しすぎる男性は、金色の髪を照らされ、その細い髪を揺らしながら、4人の方へ向かってきた。 不敵な笑みを浮かべ、近寄ってくる。 ついには、ピアノの前まで来た。長い睫毛に、形の良い眉、汚れを知らない瞳に、筋の通った、高い鼻。 そして、薄い唇。端整な顔立ちに、4人は暫く見惚れていた。 「あ、なた…なんですの、急に…」 「ああ、これは失礼」 ルリの手を取ると、大理石の床に、跪く。そして手の甲に、軽く唇を当てた。 ルリは顔を赤くし、倒れそうなほどの胸のときめきを味わった。 着ている物といい、仕草といい、どこの大金持ちのご子息なのかー…と、男を見ていると、男はツナの方に視線を向けた。 あまりの美しさに、ツナの胸は飛び上がった。 「素晴らしかった」 ピアノを褒められ、照れて俯くツナに、ルリは眉を寄せた。 自分以外が褒められるのが、気に食わない。しかも、この美しい男にーシュウの恋人は褒められているのだ。 それが気に食わない。 何としても、自分の方が上だと言わせたい。 「−…私とこの方、どちらがー…?」 「この女性のピアノも素晴らしい。でも」 貴女の美しさも勿論、お嬢様。と、男はルリを見つめた。 ルリはうっとりと、まるで男の視線に縛られているようであった。 これだけの美しい男を、そしてこれだけの魅力的な男を、見たことがない! この男に比べれば、周りの、自分に媚を売る男達はどうでもいい、全て同じようなものだと、ルリは思った。 「…美しさでは、どちらかしら?ー仮面を付けていては分からないわね」 ツナはギクリとした。仮面を取れと、言われるのではないかと。 そんなことを言われたら困る。逃げ出したい気持ちで一杯になりながらも、ギュっと手を握り、男の方を見る。 すると男はふわりと微笑み、ルリの頬に手を添える。 「仮面を取っても取らなくても、同じ結果ですよ。お嬢様」 「ルリと呼んでくれても、かまいませんのに」 「ールリ。外で二人で話がしたい」 「まあ!まあ、まあ…!シュウ、素敵な恋人ね!ワインを数本差し上げるわ。二人でお飲みなさいな」 男に誘われ、ルリは上機嫌だ。 そしてワインを得た、ツナの父もまた、上機嫌だった。 うっとりと瞳を蕩かせながら、早く二人きりになりたい、と、ルリは訴えた。 男は微笑んだまま、行きましょうか、と、ルリの腰に手を回すと、扉の方に向かって歩き出す。 一瞬、振り返り、ツナに視線を送ったが、後はもう振り返りはしなかった。 ツナはほうっと、肩を降ろした。父を見ると、口許をニヤニヤとさせていた。 「でかした、ツナ!ピアノは勘弁してやる」 もはやワインのことしか頭にないらしい父は、急いで部屋を出て行った。 使用人にワインを言いつけ、料理をたらふく食べたら帰るのだろう。 「ツナ君、良かったね。私、ひやひやしちゃったけど」 「うん。ありがとうキョウコちゃん」 「ツナ君のピアノ、とっても素敵だったわ!ね、大広間の奥の方にピアノがあったの!もう一回、聴かせてくれない?」 今日、何事もなく、無事だったのは、キョウコのおかげだ。 自分のピアノを聴かせるくらい、容易いことだ。ツナは頷き、二人は大広間へ向かう。 広間の大きな窓から、ルリと、さっきの男性がツーショットで寄り添っているのが見える。 ツナは、男性の事が胸につっかかっていた。気になることがあったのだ。 彼の、声だった。あの、美しい声。 (ー…ディーノさんに、凄く似てるー…) 大広間の奥のピアノに触れ、さっきと同じように指を鍵盤の上で躍らせる。 大広間に、ツナの奏でる魅力的な音が響き、優雅な人々はざわつき始めた。 皆、ルリの家の構造にそんなに詳しくない上、ほとんどこのピアノは使われていなかった。 広間には既に、立派なグランドピアノが置いてあった。 なので、舞台の奥の方に、ピアノがあるなんて事は、知られていなかったのだ。 何処から奏でられているのか、人々はキョロキョロと見回す。 「誰…?この素晴らしい音色」 「どこのお嬢様かしら…」 「あら、素敵な紳士かもしれないわよ」 ザワザワとした人込みの中、モチダは目を見開いて、舞台の方を見た。 この音は、どういうことなのか。こんな音色を、聴いたことがなかった。 あまりに心に響く音色に、モチダは暫く、動けなかった。 一口ワインを飲むと、モチダに群がっている女性達に軽く会釈をし、急いで舞台の方に向かう。 もうすぐ、ノクターンが終わってしまう。 舞台裏へ入ったと同時に、曲は終わりを告げた。 「誰だ!」 一瞬、アイボリーのドレスを来た女性の後ろ姿が見えた。 しかしすぐに、裏の扉から出て行ってしまった。 残っているのは、キョウコ一人だった。 「−…モチダ…、さん」 「…キョウコか?…さっきのノクターンは」 キョウコは誰か来るのに気がついて、急いで、ツナを裏の扉から逃がしたのだった。 静かに首を振ると、優しく微笑んだ。 「−…いいえ、違うけれど…。もう、行ってしまったの」 「ー…さっきの女性か。誰だ?弾いていたのは…」 「とても素敵な人よ」 扉を見ても、もう誰も居ない。 しかし諦めきれず、モチダは勢い良く扉を開けると、外へ飛び出した。 「モチダさん!」 キョウコは止めたが、モチダはどうしても気になった。さっきの音色が。 ひんやりとした空気を感じながら走る夜の世界は、灯りがぼんやりと暗闇を和らげていた。 まだ、モチダの屋敷の敷地内に、女性は居た。 ゆっくり、そろそろと歩いている。 「待ってくれ!」 「!?」 びくっと肩を上げると、ツナは走ろうとした。 しかし、モチダがまた、待って欲しい、と、今度は少し静かに、訴えかけるように言った。 「−…顔を知られたくないのなら、この場所から動かないと約束する」 約束を破るような男ではないだろう、と、ツナは知っていたが、それでも、足を一歩動かそうかどうか迷った。 どうしても、顔を見られるわけにはいかなかった。 だが、止まったまま、モチダの言葉を聞くことにする。 「さっきのピアノは、あなた、か?」 問いかけると、女性は後ろを向いたまま、コクリ、と頷いた。 本当は顔を見たいがー…その気持ちを抑え、モチダは質問を続ける。 「…名前は」 首を横に振られる。 「ルリの友達か?」 また、首を横に振られる。 何を聞いても、首を横に振られた。 まるで、声を出すことを拒んでいるように。 「−…呼び止めて、すまなかった。ただ、あまりにも素晴らしい音色だったから」 「!」 モチダが、自分を褒めている。 自分を見る時はいつも、呆れたような、情けないような顔しか、見たことがなかった。 それが、だ。今は、「素晴らしい」と言ってくれたのだ。 嬉しくなり、仮面を付けたまま、モチダを振り返った。 モチダは驚いているようだった。絶対に、後ろを振り返ったりはしないと諦めていたのだろう。 「あー、ありがとう…ございます」 聞えるか、聞えないか。とても静かに、か細い声で、何とか高い声を出した。 そして、深く頭を下げると、今度こそ歩き出し、振り返らなかった。 モチダは暫く、その場を動かなかった。というより、動けなかった。 あんなに美しく、優しい音色を出す人間はモルス通りには居ないだろう。 忘れられない、あの音色ー、そして。 そしてー…それと同じくらい。 アイボリーのドレスを纏った彼女のことが、モチダの頭を離れなかった。 そしてこの晩、化物が出た。以前、キョウコが言っていた、「顔半分はとても美しい」という噂とは違い、 顔全てが、醜く、とても人間とは思えないらしい。実際に見た女性は、泣きながら語った。 「黒いマントを羽織っている男だったのよ!私が少し肩をぶつけてしまって、そうしたら、仮面がー…。 この日は、モチダさんのところで仮面舞踏会があったから、仮面なんて珍しくないって思っていたのよ! そうしたらー…!顔全体が醜くて、もうー、ああ、何と表現したらいいのか分からないわ! 私が悲鳴をあげたら、凄い速さで夜の闇に消えてしまったのよ!そう、本当に…消えるようだったわ」 「ヴィリカの街のファントム」の話は、その夜、街中の人々を震え上がらせた。 翌日、ツナは舞踏会のことを報告しようと、また、噴水の広場を訪れた。 昨日は無事に、舞踏会を終えれた。それはディーノの励ましと、キョウコの優しさと、 ルリを上機嫌にさせたあの男性のおかげだった。 いつもの椅子に座り、それらをディーノに話すが、何故だかディーノは、いつもと調子が違った。 「ディーノさん、…なんか元気ない?」 「ん?いや、そんなことねーよ」 「−でも…」 どう考えても元気がない、と、ツナは思った。 ディーノはツナを安心させるように、そんなことはない、と、笑って言うが、だがー…。 雨がシトシト振り、夜の冷たさを一層引き立てた。 屋根に居るディーノは大丈夫なんだろうかという心配が、ツナの頭を過ぎる。 「ディーノさん、上、寒いんじゃ…」 「や、大丈夫」 「でも、雨ー…降ってきた」 屋根の下で、雨を凌いでも寒いのだ。 もろに身体に当たったら、どれだけ冷たいのだろうと思う。 「−…ディーノさん…。こっち…来ませんか?」 ディーノに呼びかけるが、彼は少し黙ってしまった。 優しい声で、自分を心配しているツナは、堪らなく愛しいが。 ツナの側に行きたいし、彼に触れてみたい。 だが、だがー…。 心の中で葛藤しているディーノに、冷たい雨は、容赦なく降り注ぐ。 |
下に降りるか降りまいか迷うディーノさん。
というか
も、モチダが…モチダが…(あわわわわ)
ディーノさんがピアノ弾いたら凄いかっこいいと思います。