驚いて当たりを見回すが、”ファントム”は見当たらない。
確かに、さっきはここでピアノを弾いていた。
ー誰かが。
そしてその誰かとは、かなりの確率で、あの、ファントムなのだ。

「−…どういうことだ…」

彼は本当に、人間じゃないのだろうか。
倒れていた女性は、モチダの腕の中で目を覚ました。

「−…っ、あれはなんだったの!?化物よ!私、間違えたりしないわ!
ああ、恐ろしい…っ!この目で見てしまったなんて…っ!」

嘆く女性を宥めながら、モチダは小部屋をもう一度見る。

(…いない…)

ツナも、モチダの近くに駆け寄って、ピアノの小部屋を見た。しかしやはり、人の気配はない。
ディーノ。あれはディーノだったはずだ。
激しいメロディーを、夜空に響かせると、たちまち消えてしまったー。
あんな、魂をぶつけるような音を、ツナは聞いたことがなかった。

(…ディーノさんは怒ってるんだ…)

この広場は、元々ディーノが気に入っていた場所に違いない。
それを、女の真似事までして、モチダを騙すのに、この場所を使ってしまったから、きっと、呆れていたのだ。
この場所を、汚してしまっただろうかー…。
ディーノに嫌われたら、どうしたらいいのか分からない。
もしも彼が、明日からこの場所に来なくなってしまったら!
話ができなくなってしまったら!
心の支えを、失ってしまう。
ツナは早く、家に帰って、仮面を取りたかった。
付けている仮面と、そして自分に施した化粧という仮面。2枚の仮面を剥がし、ドレスを脱ぎ、「ツナ」に戻りたかった。
もう二度と、この格好でモチダには会いたくはない。
急いで立ち去ろうとしたツナの手を、モチダが掴んだ。

「待ってくれ!何故逃げる?」

首を振るだけのツナに、モチダは漸く、質問をしても無駄だった、ということに気がついた。
しかし手は離さず、ツナの身体をゆっくりと、こちらに向ける。

「…明日も、会ってもらえないか」

激しく首を降るツナに、モチダは切なくなった。
ここまで惹かれた女性を、失いたくはない。
モチダは必死だった。目の前の女性と、途切れないように。何とか、繋ぎとめておこうと、必死だった。

「…わかった。ならせめて、もう一度、ピアノを聞かせてほしい」
「!?」
「今月末、もう一度、舞踏会を開く。その時にー…必ず、来てほしい」

あまりに思いつめた、必死なモチダの瞳に、ツナはとうとう頷いた。
するとモチダは、漸く、手を離す。
急いで駆け出すツナの後ろ姿を、いつまでも見守っていた。









その夜、父は帰ってこなかった。
大方、女の家に居るのだろう。ツナは内心、ほっとしていた。
もしも、舞踏会までモチダと会わないという事を知られたら、とんでもない目に合わされるだろう。
早朝、むくりと起き出すと、大きく伸びをした。
空っぽになった腹に何か入れたくて、テーブルや棚を見てみるが、やはり、パンが数切れしか残っていなかった。
仕方なく、小さなパンを一切れ食べる。
勿論、腹が膨れるわけもないが、早く仕事に行かなければならない。
水を飲んで、顔も洗いー、一通り準備が出来ると、外に出ようと扉を開けた。

そこには、一輪の、深い、何処か闇の色を映した、赤い薔薇が置いてあった。
茎の部分に、黒いリボンが結んである。
そして、一枚の、白いカード。

『君は 私のもの』

黒いインクで書かれたその文字は、奇妙に歪んでいた。
そして、黒いインクがポツポツと、跳ねていた。

「−……?」

気味が悪いと思ったが、父宛なのかもしれない。
テーブルの上に置いておくと、ツナはそのまま仕事に出かけた。




皿を洗い、野菜を洗い、手はもうボロボロだ。夏場ならいいが、冬場はかなりきつい。
赤くなり、皮が剥けた手を優しく摩りながら、家へ向かう。
はあ、と息をかけてみたが、僅かに温かくなるだけで、それも一瞬のことだった。
ツナの頭に、恐ろしい父の姿が浮かんだ。
父は帰ってきているのか、それが気がかりだった。

(帰っていませんように…)

どうか、どうか、もう少し時間をくださいと、ツナは祈った。
昨日の今日で、父にばれてしまったら、酷い目にあうに決まっている。
せめて、舞踏会が近い日にばれてほしい。それなら、まだマシというものだろう。
いや、父が恐ろしいのは、変わらないー。
ゆっくりと、道を歩いたが、もう家に着いてしまう。
ツナは絶望的な気分になった。
家に、明かりが点いていたからだ。

父が、帰っている!

ドクンドクンと、不安で荒れ狂った心臓を押さえながら、そうっと、扉を開ける。
と、同時に、食器が飛んできた。
ガチャン!と勢い良く音を立てて、割れた。
恐ろしい空間に入ってしまったことを、ツナは改めて思い知る。

「お前…っ!モチダ様に何と言った!?もう舞踏会まで、会わないそうじゃないか!」
「し、仕方ないだろ!?もうこれ以上は…っ」
「黙れ!黙れ、ツナ!大体、どういうことだ!お前、金を受け取らなかったそうじゃないか!
せっかく俺が、金を受け取りやすいように、吹き込んでやったというのに!」

父は怒りに任せ、食器や、椅子や、様々なものを、ツナに向かって投げ飛ばした。
やがてランプまで投げ出し、その火はベッドに燃え移った。

「−!!っ、」

急いで濡れたタオルをかけ、手で火を消そうと必死にベッドを叩いた。
父親も、これには驚いたらしく、オロオロと瞳を揺らしていた。
今まで何一つ、ツナに手を貸そうとしなかった父親は、こういう時でも変わらなかった。
ツナ一人が、必死に火と格闘していた。
火が無事に消えうせる頃には、ツナの手は更にボロボロになった。
しかし、そんな事を気にしている余裕はなかった。

ーたった一枚の、大事な楽譜が、燃えてボロボロになってしまったからだ。

焦げて真っ黒になった楽譜は、もう読めない。
たった一枚のー、たった一枚の、母の楽譜だった。
震える手でそれを持ち上げると、端がボロリと崩れ落ちた。
ツナは堪らず、涙を零しそうになる。
母が、燃えてしまったような気がした。
そのまま、崩れるようにペタンと座り込んでしまったツナの手を、シュウは無理矢理、引っ張った。
強い力で、ギリギリと、有りっ丈の恨みを込めているかのように、ツナの手を握る。

「−…っ、い…っ!」

火傷を負った手には、あまりにも刺激が強すぎる。

「どうするんだ!金は…、もう俺は金が貰える気でいたんだぞ!」

この期に及んで、まだ金の話をしている父に、ツナは心底呆れ返った。
そして、母の楽譜を燃やされた怒りも、湧いていた。
ギュっと唇を噛み締めるが、父はそれにも気がつかないようだ。
父は更に握り締める力を強くして、ツナに痛みを与えると、恐ろしい目で睨んだ。

「−…いいか。明日、上等なドレスと、扇子を持って来い。なんとしてでも、だ!
モチダ様に泣いて頼むなり、キョウコ様に土下座するなり、盗むなり、ー…何をしてでも、絶対に用意しろ!」
「な、何言って…っ」
「お前が金を受け取らなかったのが悪いんだ!俺はもう、女に買ってやると言ってしまったんだからな!」

恥をかかせるな、と、今度は父が唇を噛み締めた。
手の痛みは、何処かに消えてしまった。それより何より、この父が恐ろしい気持ちで一杯だった。

「もしも用意できなかったら、今度は楽譜じゃなく、ピアノを燃やすぞ!ハンナの写真もだ!」

お前の手だって、ぶった切ってしまおうか!
それとも、お前を売ってしまおうか!
と、ぞっとするような事を笑いながら口にすると、木の扉を、足で蹴飛ばし、外に出て行った。

ーなんということだろう。

ランプの消えた、暗闇の部屋で、ツナはまさに、絶望を味わっていた。










ノロリ、と立ち上がると、フラフラと家を出て行く。
今、自分の身に何が起こっているのか、よく分からないでいた。
足は勝手に、噴水の広場に向かっている。
胸が苦しくて苦しくて、息が詰まる。
勝手に動く足に任せて、ノロノロと歩くツナの心は、もはや何処かへ飛んでいた。
もう、何も考えたくなかった。
いっその事、消えてしまいたい!
いつの間にかベンチに着き、何も思わずに、そこへ座った。

昨日。
そして、今日。今。

ー何が、起こっていた?


燃えてしまった、母の楽譜が頭を過ぎる。
もう、自分を守ってくれるものは、何もないような気分になった。
自分を見ていてくれる人など、何処にもいない。
一人ぼっちなのだ。
いつも堪えて、頑張っていた。
しかしどっと、色々なものが押し寄せ、ツナは俯き、涙を零した。

一人ぼっち。
一人ぼっち。
いままでも、これからも、ずっと、ずっと、誰もいない!
ツナは叫びたかった。
色々なものを、吐き出してしまいたかった。
もう全てを、忘れたかった。
肩を震わせていると、空から、声が降ってきた。
限りなく、優しい声。

「−…ツナ?」
「…っ、ディーノさん?」
「…泣いてんのか?お前…」

何があったのか、話してほしいとディーノに言われ、ツナは素直に、唇を開いた。
まだ、涙が零れてしまって、上手く話せないがー、それでも、懸命に話した。

「父さんが、女に買う為の、上等なドレスと扇子を持って来いって…。それに、ランプも割れた。食器も…っ
お金なんて、何処にもないのに」
「…うん?」
「楽譜も燃えた。…モチダさんの家の舞踏会で、またピアノを弾かなくちゃいけないのに、
オレー、あの一曲しか…っ、弾けない…」

勿論、弾き込んでいるから、楽譜はなくとも弾ける。
だが、もし他の曲を弾いてほしいと言われたら、どうしたらいいのだろう。
むしろ、その可能性の方が高い。この間引いたのが、ノクターンなのだから。
そして、父が言った、無理な要求。
上等なドレスも、扇子も、そんな物を買う余裕どころか、食べ物も、ランプでさえ、買う余裕などない。

「ピアノはオレが教えてやるって言っただろ?大丈夫だから、−…な、ツナ」

はい、と、嗚咽交じりの返事が聞こえた。
彼の苦しみや悲しみや不安は深く、深く。一体いつから、堪えてきたのだろう。
この小さな身体を、震わせている父親が、心底憎く、ディーノは殺意まで沸いてきた。

「父親、オレが殺してやろうか?」
「…ディーノさん?」

戸惑っているツナの声。
下で、首を振っているのが分かった。
ツナはそういうことは喜ばないだろうと、知ってはいるのだが。
愛しいツナの目を、赤くさせるあの父親が、どうしても許せなかった。
しかし、殺しでもしたら、ツナの目はもっと赤く染まることだろう。

「冗談。…心配すんな。ドレスも扇子も、なんとかなるから」
「ー…ディーノさん…」

な?と優しい、独特の甘い声を出すと、ツナの顔に、少し笑顔が戻った。
少し明るくなったツナの返事にディーノはホっとした。
しかし、ツナの表情はまた曇った。

「…、昨日ピアノを弾いてたの、ディーノさん?」
「…ああ…、女性を一人、失神させちまったな」

ディーノの声が、少し、暗いものになった。
昨夜ー、ツナを恐がらせてしまっただろうか。
しかし、どうしようもなかった。あの男と、ツナが、二人きりで話す姿を見てしまっては。
嫉妬が、荒れ狂った海の波のように、ディーノの胸を襲ってしまったのだから。

「ファントム」が夜空に激しい旋律を響かせ、一人の婦人を、倒れさせてしまった。

「−…凄く上手でした!…あんな音色を聴いたから」

だから婦人は、失神してしまったのだと。
ツナが優しく、天に向かって返事をすると、ディーノの瞳は、甘く、美しく揺らめいた。
苦しい時でさえ、自分を気遣ってくれるこの少年に、愛しさばかりが積もってしまって、溢れそうになる。
実際、ディーノのピアノは天才的なものだった。
技術は勿論のこと、昨日のように、魂のこもった音色は、聴く人々を魅了してやまないだろう。
しかしディーノは、愛の溢れる曲は、ほとんど弾かなかった。
弾けるには弾けるが、全く魂が込められない。
しかし、今ならば。
ツナを想ってならば、どんな愛の曲でも、熱い魂を込めて弾きこなせると、確信していた。







ツナはディーノさんが大好き!
恋だの愛だのかは未だ 「?」ですが、本当に大好きなのです。
も、モチダもツナが大好きです。<因みに恋です(もう良い)



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